日劇とは「日本劇場」、現在の「有楽町マリオン」の場所に建っていた劇場です。
キャパ4000人の大劇場で、1933年竣工、約50年のも長きに渡り愛された劇場でした。1981年に閉館になり、その後解体されました。
戦後「李香蘭(山口淑子さん)」の興行時には劇場を人々が十重二十重に取り囲み、大変な人気だったと聞きました。
もちろん、私が生まれる前のお話です。
私が芸術座から帝国劇場に移った1981年12月には、閉館になった日劇の劇場案内係が数名帝劇に異動されており、その中に「I さん」という女性の劇場案内係長がいらっしゃいました。彼女は私の親くらいのご年齢だったのではないでしょうか。
なんのきっかけだったんでしょう、すでに記憶にありませんが、I さんは戦中、戦後の日劇や日比谷、有楽町の様子を聞かせてくださいました。
< 風船爆弾を作った話 >
劇場の大きな空間を利用してアメリカに飛ばす「風船爆弾」を、劇場勤務の女性たちも参加して作った、と話されていました。
Iさんは「風船爆弾は季節風に乗ってアメリカ本土に到達する、ということだけど、こんな 紙 で作ったものが太平洋上を飛んで行くなんて本当だろうか……こんなことで日本は戦争に勝てるのかしら」と思ったとおっしゃっていました。
< 日劇のロビーでお通夜をした >
なんの公演だったのでしょうか、映画だったのかもしれません。
公演が終了したけれど、いつまでもお席を立たない男性がいらしたので、お声をかけたところ、お席で亡くなられていたそうです。
まだまだ戦後の混とんとしていた頃で、身元が判りご家族がお迎えに来られるのも、そう簡単なことではない時節、劇場のロビーで男性のお通夜を営み、社員数名はその晩は劇場で泊まって、その男性をお見送りしたとのことでした。
有名な一階玄関ホールの巨大なモザイク壁画(モザイク作家・板谷 梅樹)に見守られ、亡くなった男性も一夜を過ごされたのでしょう。
< 海を渡った劇場案内係 >
戦後は娯楽が少なかったせいもありましょうが、日劇が再開されるとそれはそれは大勢のお客様にお運びいただき、大変な賑わいだったそうで、そんな中、その界隈には進駐軍のジープも走っていたそうです。
若かったIさんの同僚の中にはGI(アメリカ陸軍の兵士)とお付き合いされた方もいらしたそうで、数名の方(おひとりではなかったように記憶しています)が結婚し海を渡られたともお聞きしました。
Iさんは、私が勤務した帝劇で定年(その頃は55才だったかも)を迎えられましたので、ご一緒したのは数年間に過ぎなかったと思います。
そんな中でお話しくださった貴重な体験談は、私に強い印象を残しました。
こうしてご披露できる日が来ようとは……。

日本劇場